「君の番だ」7

 何を、と聞き返す前に、言葉を発すべき唇に触れられる。軽く触れ、ざらりと舌が舐めるだけで離れた軽い接触に、反応なんてしている暇はなかった。
 すぐに遠くなっていく黒猫の顔が、相変わらず笑っている。唇の端がわずかに上げられている、その程度の笑い。けれど、ここ数日の間、頑なに結ばれていたことを考えると、確かな変化だ。
 でも。
「……なん、で、今更」
 こんな風に、触れてくるんだ。接触どころか、同じ部屋に居ることを嫌がって、話をすることすらも拒否していたくせに。今になって、何も言わずに触れる意味はなんだ。
 こんな引き留め方をされなくても、村を出る気はないし、そんなつもりで訴えたわけじゃない。お互いの間にある関係がどれだけ形を変えても、つがいを解消する気はもともとなかった。ヒバリが、それを許すなら。
 胸の奥に音もなく留まり続けている、名前のつけられない思い。側にいて、気まぐれみたいに触れられるたびに積るこの思いを、二度と出てこれなくなるくらい深い場所へ沈めてしまえば、それでよかったから。
 なのに、どうして。
「そう言われても仕方無いとは思っているけどね… 急にあんな事になったから、落ち着く時間が欲しかっただけだよ。まさか君が、そんなに突っ走った考えをするとは思いもしなかったものだから」
「突っ走ったってなんだよっ」
「十分突っ走ってるだろう? 僕の意見は何も聞いてない」
「違う。俺が聞かなかったんじゃない、お前が言わなかったんだ」
 聞くも何も、全く口をきかなかったのは、ヒバリの方だ。
「だから、聞いてよ。ちゃんと言うから」
 口もとの笑いを苦いものに変えて、ヒバリが立ち上がる。立てと促すように、黒い尾がゆったりと揺れた。
 言われるがままに動くのは癪だったが、聞かなければどうしようもないのも事実だ。仕方なく、転がった床から起き上がった。手にしていたコートは、こけた拍子に投げ飛ばしていたらしい。みっともなく転がってるのを拾い上げ、元あったように椅子にかけ振り返ると、既にヒバリは寝台に腰を下ろしていた。
 その隣に座るには、まだ納得できていないことが多すぎる。それに、ヒバリが返してくる言葉次第では、自分はその寝台に座ることはもうないのかもしれない。
 そう思うと、素直に座ることはできなくて、コートをかけた椅子を引いて座りなおした。
「さっき色々言っていたことだけれど、まず言っておきたいのは、今の君みたいに椅子に座っていたのは、別に君がどうこうっていう理由じゃない」
「違う?」
「全く見当違いだ。だいたい、熱を出して寝込んでいる猫の隣に堂々寝れるほど、僕は無神経じゃない。それだけだよ。だから、叩き出しも追い出しもしなかったし、あの時だってその気はなかった。どうしたらそんな考えになるのか、そちらの方が不思議なくらいだ」
「それは… その、あんな時だったのに、俺しかいなかったし、雄だし、気に入らなったんじゃ…」
 どう表現していいのか困る内容に、つい言葉が尻下りになってしまう。
 まっすぐには見ていられず、下げた視線の先で、ヒバリのつま先がふらりと揺れた。
「逆じゃない?」
「逆、って、何が」
「相手が雄だったことに、君が腹を立てるのならわかるけれど、僕が腹を立てる謂われはないでしょう?」
「は? いや、別に、なくはなくないか?」
 自分の意志とは違う時期に発し、自らの意志ではどうしようもないのが発情期だ。偶然近くにいたがばかりに、雄を相手にすることになったのは、ヒバリにとっては文句を言うような出来事ではなかったのだろうか。
「なら、君は僕が相手で文句はなかったの?」
「っ!」
 同じ質問を返されて、言葉に詰まる。
「雄相手であることに、お互い変わりない。むしろ、衝撃が大きかったのは君の方だろう?」
 暗に、受け入れる側になっていたことを言われて、かっと顔が熱くなった。
 確かに、雌相手であれば立つはずのない立場だった。相手が雄であっても、もしかしたら立つことはなかったかもしれない。それほどに想定していない立場だ。
 けれどあの時、体のどこを触れられても反応した。熱でおかしくなっていたのだとしても、一度として拒否した覚えも、嫌だと思った覚えもない。気まずさばかりが先に立っていたけれど、改めて考えてみても、嫌悪は全く浮かばない。
 聞かれるまで、考えもしなかった。
「文句はなかったってことだね」
 改めて突きつけられた事実に、答えが返せない。出来るのは、俯いて、たぶんものすごく赤くなっているだろう顔を隠すことくらいだ。
「あの時、自制がきかないと言っていたから、もしかしたらと思ってたんだけど」
「そ、それは」
 確かに、そう言った覚えがある。けれどそれは、自分の体に起きる変化のことを言ったのであって、ヒバリのことを言ったわけではない。今の今まで、指摘されるまで気づかなかったし、あの状況下では思いつきもしなかった。
 切れ切れの言葉でそう伝えれば、そう、とため息をつくのが聞こえた。
「なら、よかった」
 安堵したようにも聞こえる声に、少し迷ってから、顔をあげた。寝台に座り込む黒猫は、組んだ足もそのままに、けれど見たこともないような穏やかな表情で笑っていて。
「け、けど。それだけで、帰ってこなくなるとか」
 静かな表情に後押しされるように、疑問が口をつく。
 たとえば顔を合わせ難かったのだとしても、同じ家に帰る以上、どうしたって顔を合わせないわけにはいかない。こちらは覚悟して家に帰っていたのに、避けて夜中まで時間を潰していたことの理由とするには、あまりに情けなくはないか。
 そう問えば、穏やかな顔から一変して苦虫を噛みつぶしたような顔になり、気まずそうに視線をそらした。その背後で揺れる黒い尾が、ぱたりと倒れて寝具を叩く。
「匂いがするんだ」
「は?」
脈略のない返答に、間の抜けた声が出る。
匂い。においとは、また、何の話だ。
「あの日、朝からそうだった。甘い匂いがずっと、君から匂っていた」
「俺? …あ」
 とっさに、首筋に触れた。そういえば、そんなことを言われた気がする。
「発情期を迎えた猫には、分かりやすい変化がある。あの匂いが変化の一つだというのなら、君の熱が治まれば引くんだろうと思ってた。けれど、引く様子がない」
「今も? 全然?」
「全く」
 頷くヒバリの顔は真剣そのもので。
 甘いにおいなんてするだろうかと、腕を持ち上げ二の腕に鼻を寄せてみるが、全くわからない。夕べも毛繕いはしたし、水浴びも数日前にしている。それで清潔が保たれるのだから、匂いなんてするはずがないし、実際なんの匂いもしない。テツや、村の猫たちにも何も言われなかったし、匂いを気にするような素振りも見ていないが。
「ああ、僕だけに匂うみたいだよ。そういうこともあるらしいからね」
「へぇ…」
「この匂いが発情期に関係したものなら、日数を考えればそう長くない。あの日だけで終わらなかったんだとしても、七日月もかからずに終わるだろう。その間は、できるだけ近づかないようにと思ってただけだ」
 不貞腐れ顔のままそっぽを向き、面白くなさそうに漏らす。
「でなきゃ、話もできないと思ったからね」
「今出来てるじゃねぇか」
 おかしなことを言う。
「あのね… 何度も言うけど、君のこの匂いは、発情期の匂いなんだ」
「あ? ああ」
「誰にもにおわないのに、僕に分かるということは、僕はまだ周期の中にいるということだ」
「そうだな」
 不貞腐れ顔から、なぜかうんざり顔に変わったヒバリが、苛立たしげに尾を振る。せわしなく動く耳が、珍しくこの猫が焦っているのだと告げていた。でも、なぜ。
「…つまり、今の僕は君の近くに行けば、問答無用で押し倒したくなる」
「う… ん?」
 頷きかけて、改めて顔をあげる。苛立たしさを知らしめるように、ぐる、と微かに喉の唸りが聞こえた。
 つまり、終息しているはずの発情期が、ヒバリの中ではまだ続いているということ、でいいのか。
 ひとり納得して、その内容に息が止まる。
 匂いが続いている。発情期特有のにおいで、鼻をかすめれば衝動を抑えきれる自信がない、と。ヒバリが言いたいのは、そういうことじゃないのか。
「ようやく、君の頭でも理解できたみたいだね」
 深く深いため息が、小さな住み家に反響する気がした。
 折角引いていた顔の熱が、一瞬で戻ってくる。火を噴くんじゃないかというほどに熱くなると同時に、下がっていた尾が足に巻きつく。たぶん、耳も一気にへたり込んでいるはずだ。
 どうして、そんなことを平然と言えるのか。言われたこちらの方が恥ずかしくて仕方ないなんて、何かおかしい。そう思うのに、心のどこかで、喜んでいる自分が確かにいる。
 嫌がられていたわけじゃなかった。その事実一つで、こんなにも嬉しい。
「とにかく、そういうことだから。もう少しの間、僕にはあまり近づかない方がいい」
「え…」
「どうせあと二日程度だ。その間くらいなら、外で寝ても構わないし」
「な、なんで」
 立ちあがるためにか、組んでいた足を解くヒバリが、不快そうにこちらを見る。
「…僕の努力を無にする気? 一応、君のためでもあるんだけど」
「俺の?」
「発情期の自制なんてないも同然だし、それは君も分かってるだろう? 僕と違って、君はもう完全に周期を抜けてる。今度は、熱だけじゃ済まないかもしれない」
「そっ…」
 それは、その通りだ。
 体に苦痛という苦痛はなく、全てがただ熱と快感になったあの異常は、発情期特有のものだ。それなら、すでに周期を抜けてしまっている自分の体は、あれほど柔軟に受け入れはしないだろう。今度こそ痛みを伴うだろうし、血を見る結果になるかもしれない。それは、確かにそうだけれど。
「そんなの、やってみなきゃわかんねぇだろ!」
 勢いで立ちあがる。足に引っ掛かった椅子が倒れ派手な音がしたけれど、振り返っているひまはなかった。
 正面に見たヒバリが、目を見開く。ぴんと立った耳が、心底驚いた事を知らせていた。
「どっ、どうなるかなんて、わかんねぇんだから、出ていく必要ねぇだろ」
「……いいの?」
 ぽかん、とした表情のまま、ヒバリが呟く。
「本当に抑える自信はないよ」
「いいも悪いもねぇ。確かに、あのときは発情期だったし、体も反応した。けど、俺は」
 ともすれば震え出しそうな手を、ぎゅ、と握る。相変わらず顔は熱くて、真っ赤になっているに違いない。
 滅多に口に出さない心の一部をさらけ出すのは、このうえなく恥ずかしい。おまけに、堂々と真正面から押し倒すと言われて、冷静でいられるはずがない。なのに、嬉しさと恥ずかしさとが綯い交ぜになって混乱した感情が、それでも、と訴える。
 それでも、言わなければいけないことがある。
「お前以外なんかごめんだし、お前が別の猫で発散するのも、お前が我慢してんのも嫌だ」
 あの時、体が勝手に反応したとは、思いたくない。例え自然の法則として、体が反応することがあったのだとしても、ヒバリだからこそより強く反応したのだと思いたい。
 雄でも雌でも関係ない。この黒猫だからこそ許せたことがたくさんある。
 体のどこか深い場所に、小さくうずくまっていた気持ちが、少しずつその輪郭を確かにする。名前のつけられなかった感情がなんなのか、ようやく分かる気がした。
 初めて会った時、僕の賛牙だ、と言われた。あれから一年の間に、いろんなことがあって、喧嘩もしたし、怒鳴り合いもした。小さなことに苛立ってみたり、ちょっとしたことが嬉しかったり、伸ばされた手を拒否したことも、触れた唇の意味を一晩考えたこともある。
 そんなことをすべてひっくるめて、それでも、ヒバリのそばにいたいという思いに変化がない。
 誰かの手をとる姿を、思い浮かべるのも苦痛だった。もうずいぶん前のことなのに、今でもあの黒髪に触れる手を思い出しては、腹が落ち着かなくなる。
 触るなと、声に出して叫びたくなる瞬間が、確かにあった。
 それはつまり、どうしようもないくらいに、この猫しかいないということだ。
 賛牙としても、つがいとしても、たった一匹の猫の立場にしても。
 この黒猫以外いらない。ヒバリ以外がほしいと思わない。
 欲望にも似たこの思いが、恋情でないならば、なんだというのか。
「…よかった」
 沈黙の後、ヒバリが呟く。その声に笑いが滲んでいて、つい視線を向けた。
 そこには、渋い顔の気配など露ほどにも感じさせない、静かに笑う黒猫がいて。
「気付いてくれなかったら、無理やりにでも気付かせるところだったよ」
 相変わらず寝台に座り込んだままのつがいが、けれど動く気配もないままに、こちらを見上げてくる。黒く、どこまでも黒い目。それが、みちしるべの葉が放つ淡い光に反射して、わずかに緑を帯びていた。
 その色に導かれるように、一歩を踏み出す。靴が床を踏む音が、かつ、とやけに響いた。
 真正面に立てば、ヒバリの耳がわずかに跳ねた。においがする、と言ったのは本当らしく、やけにあちこちを向く耳は落ち着きがなく、見た目は冷静なのにどこか焦っている様子が手に取るように分かってしまう。
「…触っても平気か?」
 発情期の熱がまだ残っているのなら、触るだけでも反応するはずだ。少なくとも、自分はそうだった。触れられたら触れられただけ体が熱を持つ、あの生々しい感触が蘇るようで、伸ばす指先が震えた。
「怪我をするわけじゃない、確認する必要もないことだよ。それに」
 震える指先を握られる。少し下にある位置から見上げてくる黒い目が、ほんのわずかに、細くなった。
「僕も、君が僕以外の猫に触れられるのは嫌だ」
 そういうことだよ、と笑う黒猫が、握った指を引く。
 引き寄せられるままに倒れる体が、緩く受け止められる。背に回った腕に力が籠れば、痛くもないのに、なぜか泣きたくなった。