1.お望みならば朝までずっと。
人には感情の地雷というものが存在する。
他人にはどうでもいいことでも、本人には重大な意味を要する言葉だとか、行動だとか、そういうものだ。それをなんの予告もなしに突然踏まれると、当然爆発する。
人間というのは厄介なものだ。そんなもの、除去してしまえばいいのに。
そうは思うけれど、そう簡単にはいかないからこそ、人間というのは地上で一番おろかな生き物だと言われるのだろう。
危険だと分かっていて踏み込んでみたり、他人と自分を比べたり、存続目的以外で体をつなげたり。
案外知能が発達しているほうが、一般的に動物的といわれる粗野な行動感情に近いんじゃないだろうか。
暗く、明かり一つ灯らない部屋で、部屋の片隅をにらみつけながら思う。
きっかけは、本当にどうでもいいことだったはずだ。
最初に彼の地雷を踏んだ自分に、反撃するように地雷を踏み返してきた。ただそれだけの、他人から見たらとてもくだらない理由で武器が飛び出す。
その後はいつもと同じだ。ただ少し違ったのは、その存在を切り捨てた事。いつもなら多少の気は配るが、それをせずそのまま残してきた。
別に後悔はない。元々、言い方は古いが自分の辞書にそんな文字はないのだ。後で悔やんだところで始まらないし、後の祭りという言葉もある。それくらい、くだらないことだと思っているから。
けれど、それならどうして、明かりの一つもつけない部屋で、ただひたすらじっとしているのか。
気になるのなら行けばいい。放置してきた場所も、帰るはずの家も、知っている。そうでないのならば、寝るという選択肢を選べばいい。明日も学校は通常通りあるのだから。
自分の行動が理解できない。気になることを後に残しておけるほど、無神経な人間ではないつもりなのに、足が動かない。立ち上がることを良しとしない。
ああ、いらいらする。
どうしてこんな思いをしなければいけないのか。ほしかったのは、こんなに不自由な感情と不快感ではなかったはずなのに。
ため息をついて、力を込め立ち上がった。
夜の学校は気持ちのいいものじゃない、という話をよく聞く。が、案外そうでもないことを、きっと誰も知らないのだろう。
しんとした廊下には自分の足音だけが響き、誰も居ない教室には心地いい静寂しかない。騒がしく、煩わしいことが一つもない空間は、気持ちいいものだと思う。
かつん、と音を立てて、一つの扉の前でとまった。明かりは漏れていない。
やはり気づいて帰ったのだろう、そう思い返しかけた踵が、もれてくる気配に気づいて止まった。
この部屋に入ることができるのは、自分以外は委員会の人間だけだ。すべての委員が自宅に帰っていることは、副委員長からの連絡で聞いている。それなら、唯一風紀関係者でなく入室を許される、彼以外の誰が。
扉を静かに開けば、窓際に座り込んでいる姿がある。月明かりで、その手元にひとつ、携帯電話が置かれているのが見えた。
誰に、なんと言って、かけるつもりの電話か。
考えるまでもなかった。
「ねぇ」
口を開いたのは咄嗟だった。何の考えもなく、勢いだけで声が滑り出る。
「携帯電話って、見てるだけじゃかからないよ。そんなことも知らないの?」
振り返った目が、驚きで見開かれる。緑色の瞳が、月明かりで淡く見えた。
「蓋を開けて、番号を押して、通話を押す。簡単じゃない」
一歩、一歩と近づくたびに、その視線が上げられる。真後ろに立てば、口元に血の跡があるのが見えるくらい、近く。
「かけてみなよ。どうしてかけないの?」
どうせ相手はあの正体不明の同級生だろう。弱いのか強いのか、掴みきれない、あの。
そうしてまた頭を垂れ、申し訳ない、と自分の不甲斐なさを詫びるのだ。そうしなければ生きていけないとでも言うように。
イライラする。
自由にならない感情、募る不快感。目の前の男に対しての、理解できない、この感情の渦。
すべてが、苛立ちに変わる。
「必要なくなった」
向けられた視線が、笑みでやわらかくなる。
「電波よりお前のほうが早かったから」
誰に、なんと言って、かける電話か。
まさか。
「…僕に、かけるつもりだった?」
「けど、よく考えたらお前の番号しらねぇ。ってのに、今気づいた」
ち、と軽く舌打ちが聞こえる。転がされていた携帯電話を取り上げ、乱暴なしぐさでポケットにしまいこんだ。そういえば、改めて電話番号やメールアドレスの交換、なんてことをした覚えがない。自分の携帯にも、彼の携帯にも、互いのどんな情報も入っていない。
「…ダセェの……」
つぶやき落とされた言葉は、きっと自分に対してだろう。
携帯番号さえ知らないと、そんなことにすら気づけないくらいに、きっと混乱していた。自分自身に。
「…貸して」
「へ?」
「電話」
手を差し出せば、意味が分からないと眉をひそめ、それでもしまい込んだばかりの電話を手のひらにのせた。
それを開き、勝手に操作する。扱いなれていない機種は面倒だったが、どうにか探り当てた番号に、今度は自分の電話を開いてダイアルした。
「お、おい、ひば…」
味気ない音がする。手にした丸みのある電話は、軽く一声鳴いてすぐに黙った。画面には、十一桁の番号が一つ。
「はい」
「……これ」
「僕の番号。今度からは四時間も呆然としてないで、さっさとかけてきて」
「なっ!」
か、と月明かりでも分かるくらい真っ赤に染まる顔に、手を沿え、腰をかがめて寄せた。口元の血の跡を舌で拭えば、それはさらに深みを増す。
「雲雀…っ」
「帰るよ。ここの鍵を閉めないといけないから」
「人の話を聞けっ」
「聞いてあげる、君が望むなら朝まででもずっと」
君がもういいと音を上げるまで。話したいこと、全て聞いてあげるから。
「だから、行くよ」
屈めていた体を起こして、座ったままの獄寺を待つ。しばらく考えるように黙りこんで、ち、と小さく舌を打つのが再び聞こえた。
「鍵閉められたんじゃたまんねぇし」
ぼやきながら体を起こす。打撃のダメージが残っているのか、多少足元がおぼつかないままだが、それでも立ち上がった。伏せた顔にかかる髪から覗く目元と耳が、わずかに赤い。
そうか、舌打ちは照れ隠しの合図か。
小さなことに気づいて、口元に笑みが浮かぶ自分にも気づく。
ここを出て、再び戻ったあの瞬間まで。地を這うように下降一方だった自分の機嫌が、いまやすっかり平常どころかそれを上回っている。不可解な不快感は影を潜め、満たすような心地よさだけがある。
不自由な感情だ。どれだけ自分で回復しようと試みてもだめだったものが、たった一言、ほんの一瞬ですべて解消される。
こんなもの、ほしいと願ったこともなかったのに。
歩く自分の後ろで、かちり、と音がする。気づかれないように視線だけで振り返れば、先ほどしまった携帯を取り出してボタンを弄っているところだった。何をしているのかは、想像に難しくない。
そしてまた一つ、自分の機嫌が上昇した。
己の地雷は、良くも悪くも、その手にだけ起爆が握られている。
そのことに、満足して。
獄寺ver.の続き。雲雀の携帯ってどこもっぽいですよね… ▲