03. 傍にいるだけで満足できたら
うるさい、うっとうしい、いいかげんにしろ。
そんな言葉で跳ね除けようとしたって無駄だ。そんな言葉に、なんの力もないことを、知らないはずがないのに。
夏大予選の、第一試合。たった数球受けただけでその試合は終わってしまったけれど、高校に入学して、初めての大きな試合だった。
目の前に居る不機嫌顔のエースは好調だったし、負けるはずがないと思っていた試合。相手は無名の公立校で、今年新設だと聞いた。うちの先輩たちに限って負けるはずがない相手だった。それなのに、結果は無残にも敗退。前年甲子園までたどり着いているだけに、それは結構な衝撃だったけれど。
繊細で傷つきやすいエースには、それは、衝撃なんて言葉では済まされないほどの、傷になっていて。
それを、どうにかして癒せないものかと、教室に通いつめ、元気であることを確認してしまう。
元気? 大丈夫? 部活行こう?
もうそれは、一種の習慣にもなっていた。
「お前な、毎日毎日同じこと聞いてんじゃねぇよ」
はぁ、と呆れ顔のエースの手が伸びてきて、額にチョップを食らった。痛い。普通に。
「痛くしてるんだから当たり前だろ、あほりおー」
冷たく言い置くと、席を立った。置いたままのかばんを取り上げるところを見ると、部活に行く気になったらしい。
最近の準太は、少しおかしい。
夏大終了後から、少しずつ、何かおかしくなってきているような気がする。気のせいかもしれないけれど、幼いころからただ見てきただけではないという自負があるから、どうにも、気のせい、で済ませきれない。
部活には毎日行っているし、授業だって当たり前に受けているよう。これといっておかしい場所は見当たらないけど、と上級生も同級生も口を揃えて言うが、それに納得が出来ない。
だって、なんだか、背負ってる空気が重いんだ。
あんなに慕っていた女房役でもある正捕手が引退し、今はその役を自分が引き受けている。準太だって納得しているはずだし、もうそうなってから一月以上が過ぎているのだ。いまさら、ホームシックならぬ和己シックにかかるはずもない、と思いたい。
家族仲もいいほうの高瀬家で、いまさら家族中を巻き込んだ大喧嘩が繰り広げられているとも考えにくい。つい先日部の連絡網で電話した時だって、おばさんは明るかったし、聞こえてきた弟の声も笑い声だった。
そうなれば、もう原因は一つしか思い浮かばない。
まさかの一回戦負け。夏の大会。甲子園。
その舞台に、立てなかった。
先輩たちと出来る、最後の試合が、たった一つで終わってしまった。
そのことがずっと、準太の心に影を落としている。
わかるよ。だって準サンが和サンのこと、どれだけ好きだったか知ってる。慕って、尊敬して、ただひたすらに信じていた。このひとだからここまでこれたんだと、いっそ妄信的に。
そんな河合を、たった一つの試合の結果だけで、失ってしまった。そのことが、準太には耐え難いんだ。
一ヶ月経った、今でも。
すたすたと部室までの道を歩く準太は、迷いがないように見える。
いつもは、真正面を向いて向かい合うポジションなのに、こんなとき絶対に準太は顔を見せない。自分の精神がゆれている様を見られることを嫌った。
背中だけが、妙に狭くて、心もとない。
その背中が、唐突に、本当に突然、ぴたりと止まる。
「……準サン?」
部室まではあと少し。自然いっぱいで、一歩間違えたら鬱蒼としている校舎脇の雑木を道なりに行けば、野球部のグラウンドにたどり着く。
それなのに準太は、突然こちらの腕を掴んだと思うと、そのまま雑木に足を突っ込んでいく。あわてて、部室はこっちじゃない、と言えば、いいから、とまともに相手もしてもらえない。
しばらく歩いてようやく足を止めたかと思うと、あたりはもう子供のときに作った秘密基地のような空間だけがぽっかりと空いた場所で。そういえば島崎あたりが、この学校は実は死角が多いんだ、と笑っていたのを思い出す。死角が多いのがどうしたんだろうと思ったが、そのときは確か、河合がいい加減にしろよととめたんだ。懐かしい、ほんの数ヶ月前の話なのに。
くるりと振り返る準太の顔が、どこか困惑気味で。そのまま隠すように、肩に埋められた。
ああ、このひとはまだ、ぬけだせないんだろうか。
あの、雨の日の試合から。
「…利央」
弱く呟かれる、自分の名前。
伸ばした手で、ゆるく肩を抱いた。遠慮なく預けられる体重が、心地いいほどの重みで寄りかかってくる。
準サンは、きっと知らないよね。
俺が教室にしつこいって言われても行くのは、別に合いたいからじゃない。合いたいのは合いたいけど、休憩の旅にたずねていかなければいけないほどじゃ、正直、ないんだ。
それでも行くのは、そうしないと、アナタがどこにもいけないからだ。
和サンのところにもいけない、慎吾さんの所も無理。まして同級生なんて、弱みを見せたくない相手ナンバーワンだろう。そういうところ、投手はブライドが高い。
だから、こんな風に体を預けて、少しだけ力を抜いてくれるのは、俺の前だけだって知ってる。知ってるから、毎日毎日、通いつめてるんだ。
じゃないと、今すぐにでも目の前から消えてなくなりそうで。
怖いんだ。
抱いた肩を、力を込めて引き寄せる。抵抗しないのをいいことに、掴まれた腕をずらして握った。毎日ボールを握っている、無骨な指を。
今はいい。それで満足できるから。
でも、きっといつか満足できなくなる。そばに居るだけなんて、そんな生ぬるいだけで終われない。
だって俺は、アナタのキャッチャーなんだから。
今は違う方向を向いていたって、ちゃんといつかはこっちを向いてくれないと、今度は俺が行く先をなくしてしまう。
ねぇ、早く気づいて。
今あなたの前に居るのは俺で、俺の目にはもう、ずっと前しか、あなたしか映ってないんだってことを。
利央は本能タイプ。準太側はこちら。 ▲