05. 少しだけ速まる鼓動

 見上げた先には、憎たらしいくらいの笑顔。
 腹が立つ、むかつく、消えてしまえと思う心が、一つ、鼓動をはねさせた。


 日本の学校の制度は今までいた国とは違っているらしい。
 特殊な事情からこれといった学校に通っていた覚えもなく、どちらかというと家庭教師を雇うような生活が当たり前だったから、初めて聞く、夏休み、という言葉がぴんと来なかった。
「イタリアにはないの?」
 そう十代目に問われたときも、さぁ、としか答えようがなく。
 そういえば、こちらとはそもそも学期の始まりが違うはずだ。こちらは四月で学期が始まるが、イタリアは九月からで、十代目のおっしゃる夏休みの期間は、こちらの言葉で言う春休みに通じる期間だ。つまり、ちょうど学期が変わる時期になる。
 面白くもない期末テストが終わると、日本は全国的に夏休みという期間に入る、らしい。十代目がおっしゃるには、夏の暑い期間毎日学校なんてこれないし丁度いい、ということだ。確かに、日本の夏は殺人的に暑いし、学校なんて場所はその局地だ。空調も何もないから、下敷きくらいしか涼を得るものがない。休みになるのはうれしいくらいだ。
 けれど、多少の不満もある。
 学校に来なくていいということは、十代目の護衛がやりにくくなるということだ。
 確かに外出すればそれだけ危険度が増す。だから、最強のヒットマンがそばに居る自宅のほうが確実に安全だ。分かってはいるけれど、それはつまり、そばにいれないということを示していて。その事実は、夏の暑さよりも確実に獄寺を苦しめた。
 今はまだ役に立てないが、いつかそのヒットマンから側近の座を譲り渡していいと言われるまで。そばにいて、お守りしたいのに。
「あ、獄寺君、ごめんね。今日、うち母さんが夜に出かけるらしくて、出来るだけ早く帰ってランボとイーピンの世話するようにいわれてるんだ。そうしないと小遣いとめられちゃうからさ… ごめん、だから先に帰るよ」
 そうやって、十代目はあっさりと踵を返して駆けていく。
 期末テストも終了し、それは恙無く結果まで知らされ、夏休み目前の学校内はそれはそれはにぎやかだ。そんな中、成績のことで呼び出しを食らっていた間に、十代目が先に帰られてしまった。どうにか校門手前で追いつきはしたものの、そう言われてしまったのでは、上履きで飛び出してきた以上お待たせすることは出来ないし、このまま一緒に帰るということも出来なかった。何せ一人暮らし、カバンの中身が全財産だ。なければ家に入ることも出来ない。
 面白くない。成績なんかのことで呼び出された、そのことに素直に応じるんじゃなかった。
 はぁ、とため息を落として、来た道を戻る。続々と下校している生徒に逆らって自分ひとりだけ教室に戻っているのは、少しむなしい。
 呼び出された内容は簡単だ。単に、成績がよすぎるから、という理由だ。
 そうは言われても、学校に行った事もなく、ただ家庭教師が教えることを覚えてきただけの自分には、逆にこの学校という制度がわからない。一対一で教えたほうが当然、教師も生徒も集中できるし身につくだろうと思うのに、そうせずに、どこでこれだけの知識を、なんて、ばかばかしい話だ。
 結局しばらく押し問答して、どうでもよくなって教師がとめるのも聞かずに職員室を出た。最終的に話題が両親にまで飛び火しそうだったのもある。あいにく、三年しか付き合いのない他人にわざわざ話して聞かせるような家庭ではないのだ。
 面白くない。戻りたい、イタリアでの日々に。
 再び口をついて出そうになるため息を、こつん、と頭に何かが当たって止めた。
 なんだ、とあたりを見渡せば、近くに一つ、飴玉が落ちている。赤いかわいらしい個別包装紙に、小さな小さな飴玉が一つ。
 拾い上げて、顔を上げた。そのときどうして上を見上げようと思ったのか、自分でもわからない。
 けれど、そこに居たそいつの視線を感じたんだろう。
 真っ黒な学生服を肩にかけて、真っ黒な髪の下で、こちらを面白そうに見る、真っ黒な瞳の。
 一瞬で、この飴玉の犯人がこいつだとわかった。笑う口元が、明らかにバカにしている。
「随分間抜けな顔をしてるね。ご主人様に捨てられたのかい?」
 おまけに、この口の利き方だ。
「っ、てっめぇ!! 雲雀!! お前絶対そこ動くなよっ!! 今すぐ行ってぶっ飛ばしてやるっ!!」
 指を突きつけて叫ぶ。出来るものならね、と遠く離れていても聞こえてきそうな反応が口元だけに濃く現れて、余計に腹が立ち、飴玉を胸元に仕舞って駆け出した。
 ああでも、そうか。
 近いうちに、学校は夏休みに入る。そうしたら、学校にくる必要はなくなる。
 そうすれば、学校で脅威を振るうこの風紀委員長に会うことも、格段に少なくなってしまうのだろう、と。そのことに気がついた瞬間、胸が音を立てる。
 一つ跳ね上げた鼓動を、二つ、三つと増やしながら、階段を駆け上がった。
 もう少しで雲雀の居る応接室だ。胸元を探って煙草を取り出そうとした指先が、かさりと飴玉に触れた。風紀委員長が投げて渡すには、あまりに不似合いなその包みを、一度握って離した。
 廊下を走り、扉の前で足を止める。
 夏休みまでの間の、数日間。
 飴玉は、溶けないまま、無事に過ごせるだろうか。

 そんなことを思いながら開いた扉の向こう、凛と立つ姿を見て、また一つ、鼓動が早くなる。

教育に関しては調べましたが、家庭教師云々は捏造です。雲雀側はこちら。