08. 触れたくて、でも触れたくなくて

 そうしたいのにそうしないのと。
 そうしたいのにそうできないのとでは。
 全然違うんじゃないかな。

 そう言うと黒鋼は、不可解、という表情をした。
「たいして変わらないだろ」
「全然違うよー」
 姫の羽を一つ手に入れて、また不思議な魔生物の魔方陣から次元を移動した、新しい世界。
 今度もまた誰の故郷というわけではなく、ただ空がどんよりと曇っていて、誰の故郷よりもきっと自分の故郷にずっと近い場所なんだろうな、と見上げて思った。
 すっかり回復の早くなった姫は移動すると早々に起きだし、あたりを探ってきます、という少年とともに出かけてしまった。羽が幾枚も体に戻り、呼応して記憶と感情が戻り、彼女は最初のころに比べてかなり人間らしくなってきている。最初のころなんて、座っていて、と言われればきっと一週間だってそこにただ座っていただろうな、と思わせるほどだったのに。
 人形が、次第に意識を取り戻し、人間になっていく。その工程は見ていてほほえましく、また痛々しいものでもあった。
「サクラちゃんは思い出したいのに思い出せないでしょう? 思い出したくないわけじゃないのは、黒様だって知ってるじゃない?」
 少年が魔女に差し出した対価は、姫が決して己を思い出さない、というもの。
 それは生涯を通してのもので、彼女の中には少年の記憶はなく、思い出せることもない。過去に居たのではと、思うことすら禁じられる。
 そばで見ている少年の苦悶にゆがむ顔は、あまり見ていて楽しいものではなかった。
「小狼くんだってそーだよ。きっと本心では思い出してもらいたいだろうね。でもそれは無理だから、もう全部覚悟を決めちゃってる。思い出してほしいけど、たとえ魔女さんに、そうしてあげてもいいのよーって言われても、うんとは言わない気がするんだー。これが、したいけど、しないってこと」
 全然違うでしょう、と隣に座る相手を見上げれば、ふん、と鼻先だけの笑いが帰ってきた。
「大してかわらねぇな。結局は、自分ひとつじゃねぇか」
 そう言って、出かけにモコナから用心のためにと出させていた刀の柄を握る。
 彼が差し出した対価は、確か、刀だった。柄にある銀色の細工が美しい、綺麗な刀。
「しないと心に決めるのも、出来ないと決め付けるのも、結局は自分の心次第だ。姫がどうしても小僧のことを知りたいと願えば、また魔女と取引でもすればいい」
「あの人はそんなこと応じないでしょー」
「それなら過去は諦めてしまうことだな。過去は過ぎた時間だ、小僧と姫が過ごした時間も、これから過ごす時間に比べればずっと短い。それをどう捕らえるか、あいつらの心しだいで、いくらでも捕らえようがある。結局はかわらねぇんだよ、しないも、できないも。同じだけ苦しいだろうが、同じだけ選択肢がある。悲観したいならすればいいし、善処したいならすればいい。少なくとも、俺はそうやって生きてきた」
 柄と鞘を握り、ほんの少しだけ、刀身が現れる。きらりと光る銀色が、黒鋼の紅い目に映りこみ、それはとても心強い色だった。
「…黒りんは強いなぁ」
 綺麗で深い、銀と黒と紅。
 それは、自分の中にある、黒鋼という男の色だった。
「かっこよすぎてあこがれちゃうー」
「…きもちわりぃからくねくねすんな…」
「へへー」
 よいしょ、と立ち上がって、また空を見上げる。隣で、しゃん、と刀を仕舞う音がした。
 黒鋼は綺麗で強い。それはきっと、彼なりに過ごしてきた時間があり、それがここまで彼を強くしたのだろうと思う。そして、こうしてともに旅する間にも彼は成長し、かわっていっている。
 それは、彼がこの旅を、帰れないかもしれないと悲観するのではなく、帰るのだと確固とした想いがあるからだ。
 逃げなければ、離れなければとそればかりで、前を向いていない自分は、きっと悲観ばかりしているのだろう。そんなつもりもないけれど。
「小狼くんたち、かえってこないねー」
 雨が落ちてきそうな湿気が体にまとわりつく。
 自分が渡した対価は、この体に刻まれた黒い印。膨大すぎるといわれた力を制御するための、大切なリミッター。
 今はもう元の白すぎる肌に戻った背中を、鏡で見ることが恐ろしい。そうしてまた、逃げている。
 ちらりと下を見れば、黒鋼は相変わらずの仏頂面で前だけをみている。
 力強く、綺麗で強い黒鋼。
 それは、触れたくても触れられない、宝石のようで。
「…んー、ちがうなぁ」
「あぁ? 何だ」
「何でもなーい」
 ひょい、と集合場所にしている岩陰から一歩踏み出した。
 触れたいのに触れられないんじゃない。
 触れて、それに引きずり込まれるのが怖いから、触れないんだ。
 冷たい感触が頬に触れる。降ってきた。


 強い鋼のような精神力に触れてみたいと思う心と、触れたくないと思う心は、今微妙なバランスで平衡を保っていて、一つどちらかに心を動かせば簡単に傾いてしまうだろうと、それが何より、一番怖い。

ファイの正体発覚前でした。黒鋼側はこちら。