01. 始まりのくちづけ
目の前で死人を見るのはもう沢山だ。
救えなかった沢山の命は、いまでも、この胸にある。
「…おい、白饅頭」
「モコナだもん」
「ここにおいてあった本、しらねぇか」
腰ほどの高さもない机の上を指す。確かにここに、一冊の雑誌を置いた。ほんの一刻ほど前の話だ。間違いない。
けれど今、この場に本はない。ということは、誰かが持ち去ったということになり、そうなると心当たりはこいつしかいない。
「知らないよ。黒鋼、お部屋じゃないの?」
「今出てきたところだ」
半強制的に移動させた国で、既に旅の第一目標になっている少年を探すことは、一時中断された。この国に羽があるのかないのかもはっきりしないのに、旅を第一に必要としているはずの姫が、この国に逗留して金を稼ぐ、と言い出したからだ。そうして稼いだ金を、通り過ぎるだけの国で見た悲惨な光景への、せめてもの償いになればと、魔女と取引を交わした。
あの国の惨状は、誰の所為でもない。
あえて言うのなら、母を殺め、人の人生すら狂わせようとする男の所為で。
姫の所為でも、少年の所為でもないというのに。
けれどそれをどれだけ言ったところで彼らは納得しないだろうし、言うつもりもない。逆に自分を責めかねない。どれだけ否定してどれだけ慰めようと、彼らの意思は固く、思いと傷は深いのだから。
自分はただ、彼らの決定に乗るだけだ。
その行く末に必ず、長年捜し求めた敵がいるから。
彼らの旅の目的は、小僧を探すものになった。同時に、自らの目的は、国へ帰ることから、敵を撃つというものに変わったのだ。
これも全て、あの魔女言わせれば、必然なのだろう。
一人一人の旅の目的が変わり、こうして、全員がばらばらになることも。
「ないの?」
「ああ。だからお前と思ったんだが…」
「モコナ知らないよ。それに、まだ読んでないもの」
「そうか」
はてそれならどこにやっただろう。
あの本は、自分と白饅頭しか読まない。正確には、見ない。読めたのは、今はいない小僧だけだ。
「しょうがねぇな… もう一冊買って来る」
「でもあれ週刊でしょう? もうないよ、きっと」
「…そう思うか」
「うん。多分、ない」
こくり、とどことも判らない首が頷く。
確かにこの雑誌は週刊で、七日過ぎれば新しい号が出る。その所為か、発売してそう日を置かない間に売切れてしまうのだ。今までどの国に行っても同じように発売されていたし、その癖も同じで、だから買い逃したものは一つとしてないのだけれど。
しまった。失くす、ということが、範疇になかったか。
「ちっ… 仕方ねえ、一週分くらいなくてもどうにかなる」
そう自分に言い聞かせて、どさりとソファに体を投げ出した。跳ねて腹に乗る白饅頭が、黒鋼、と高い声で呼んだ。
「なんだ」
「ご本、ずっとモコナが預かってるよね」
「ああ」
こんなときばかりは便利だと、確かに全部コイツの腹の中だ。
「いつか、読むんでしょう?」
「ああ」
「……あのね」
「なんだ」
「そのときは、みんなで読めるといいね」
何所が尻なのかもわからない生き物は、腹にぺたりと座り込む。
「モコナと、黒鋼と、サクラと、小狼と、もうひとりの小狼と、ファイと、みんなで読みたいね」
その姿は、今は廊下の向こう、閉ざされた扉の中で姫の眠りを守っているはずの奴を思い出させた。
「…そうだな」
ほんの数ヶ月前の話だ。
書かれている文字が読み取れず、それなら判ります、と申し出た小僧に翻訳させた。それを聞いた姫が、すごいね、と笑い、黒様も覚えたらいいのに、とからかうような声を上げる。
ほんの少し前のことのはずなのに、もう何十年も昔のような気がする。
どうしてこんな風になったのか、なんてことは、出来るだけ考えないようにしている。そうして後ろを向き後悔だけをしているよりは、前に進んだほうがいいと、知っていたから。
ああ、でも。
あのふざけたあだ名も、もう随分、聞いていない。
「黒鋼は、いなくなったりしないでね」
「白饅頭」
「モコナのことなんて呼んだっていい。だから、いなくなったりしないでね」
ぐりぐりと額が押し付けられる。痛いどころか、ふわふわして気持ちがいいくらいだ。
「…ふん」
そうだ。
なんて呼んだっていい。そこに居れば、話をすることも、殴ることも出来る。
いなくなってしまえば、そんなこともできない。
「…お前はあいつのところでも行ってろ。ぐたぐた考え込まねぇようにな」
「小狼のところ?」
「ああ」
「…うん、じゃあ、そうするね。お話してくる」
顔を上げたモコナは、わざとらしく笑い、腹から飛び降り跳ねていった。
最初こそ、白い奇妙な生き物だったが、あれはあれで考えることができ感情がある。それなら、たとえどんな形をしていても生き物に違いなく、あれでいて旅で一番重要な役を担っている。それなりに気遣っているんだろう。あの、小さな体で。
二つ前の世界で、このパーティは色んなものをなくした。
その全てを取り返すためには、おそらく長く険しく、多難な道が待っているんだろう。
けれど、それを取り返すことが、全員の望みだ。
そのためなら、使えるものは使う。
たとえばそれが、己の血でも。
一人になったリビングは広くて静かで。
左腕につけた傷が、そこに初めて触れた唇の熱を思い出したように、静かに疼いていた。
黒様は一番格好いいと思います。ファイ側はこちら。 ▲