04. 喰い尽くしてしまいたい
狂気はやがてこの身を覆い。
そうして緩やかに、少しずつ、誰にも気づかれない間に。
人間は誰にでも、どうしようもなくなる瞬間というものがある。
自分だけの力ではどうにも出来ず、だからといって誰かの手を借りたくもない。借りれない。
そんな状況に陥ったとき。
大体の人間は、諦めてしまうものだ。
どうしようもない。自分の力では右にあるものを左に動かすことすら出来ない、自由に呼吸をして、生きていくことすら許されない。自らの生命でさえ、この手にはない。
絶望的な状況の下で、生きる、ということを諦めてしまう。
強さ弱さの問題じゃない。それは、精神が折れるということ。
けれど心ばかりは鍛えようがなく、生まれ持った強さがなければ、それは案外簡単に折れてしまうものだ。
ぽきりと枯れ木のような音を立ててあっけなく折れるそれは、二度と、元の形には戻せない。
「ファイ、さん?」
目が覚めたのか、まどろんだような声が上がり、目を向けていた本から顔を上げた。
「おはよう、目が覚めた?」
「あはようございます… それ、読めるんですか?」
「んー、イマイチよく分からないけど、まあ、絵だけならわかるから」
ぱたん、と開いていた本を閉じる。この国は自分の国と何もかもが違い、当然のように文字も読めない。この本は、全く役に立たない。
様子をベッドの上に横になったまま見ていたサクラは、またゆっくりと目を閉じて、ファイさん、ともう一度名前を口にした。
「なぁに?」
「無理を、しないでくださいね」
夢見心地の声はふわふわとしていて。
あのときから張り詰め続けている彼女の気持ちが、ほんの少しだけ、溶かれている証拠だった。
「うん、平気だよ」
無理などしていない。これは、確かに自分が選んだ道だから。
あの場でサクラを守り先に進んでいくという選択をしたことに、後悔なんてない。だから、何一つ。
「…その本」
すう、と寝入る吐息。
「黒鋼さんに、渡してあげてください…」
一言を残して、中途半端に目が覚めていただけらしいサクラは、二度寝に入ってしまった。
落された言葉に、ぴくりとも動けない自分ひとりを残して。
「…いいんだよ、これは」
閉じた本の表紙を撫でる。見たこともない文字で綴られた雑誌の名前は読めない。記憶が正しく、また同じものなのなら、おそらくよく知った雑誌の名前なんだろう。
ずっと、どの国でも、彼が見ていた、一冊の本。
「もう、読んだあとのものだから」
文字なんて読めるはずがない。彼は、自分とは全く違う文化圏の人間で、だからこんな文字なんてなじみもないはずだ。いつか見せてもらった彼の母国語は、自分から見れば全く図形のような文字で、この雑誌を埋め尽くす文字とは似てもに付かぬものだった。
それでも、彼はずっと雑誌を買い続ける。
読めない間は、今はもういない少年に解読させていた。彼と同じ魂の持ち主という少年なら読めたのかもしれないが、彼は、いい、と断っていた。
「そのうち、読ませる」
怖い男だ、と思う。
どうして、そんなにはっきりと自分がもてるのか。綺麗に整理が出来るのか。
強い心は、強い体と、ゆるぎない精神を彼に与えた。諦め捨てかけた命を、自らの命を糧とさせることで拾い上げた、残酷で、綺麗な。
まっすぐに目を向けていられない、まっすぐに目を向けられることが怖くなる、赤い瞳。
右目を閉じる。真っ暗になった瞼の裏、赤い光が瞬いた。
それをふさぐように、さえぎるように、汚すように黒い影が覆い隠していく。
隠しきれない衝動がある。
体の奥底から、生存の本能と一緒に持ち上がってくる、黒い欲。
欲しい、駄目だ、欲しい、いけない。
繰り返される衝動と抑制の本能は、やがてどちらかが勝り、行動に出てしまうのだろう。
それは、赤い瞳を食い尽くす黒い狂気か、生存を望まない青い狂気か。
どちらにしてもこの身には狂気しかない。
自嘲の笑みが浮かぶ口元は、けれど苦しげで、部屋はそれに気づかない小さな寝息だけで占められていた。
サクラの正体発覚前。黒鋼側はこちら。 ▲