「帰ろうか」1

 ある日森の中で見つけたのは、小さな入れ物だった。
「なんだ、これ」
 切り株の上に忘れられたそれを、ひょいと持ち上げる。どうやら丈夫な草を編んで作った籠のようなものらしく、左右を繋ぐようにして渡された取っ手が、なんとも持ちやすい。中身は空で、僅かに木の実のにおいがした。街の猫や子猫が、面白半分に木の実を取りに来たのだろうか。
 籠といえば行商猫が使うような大きめで背負うことができる形のものが主流で、こんな形は珍しい。子猫の遊び道具なのか、それとも木の実を入れるために誰かが編んだのか。どちらにしても、手頃な形と大きさで、使い勝手は良さそうだ。
「ああ、最近藍閃で流行ってるやつだね」
「これが?」
 手元をのぞき込む黒い目を見返すと、ちらりとこちらを向いてから、貸して、と手を出す。
「…やっぱりそうだ。使いやすいって評判で、試しに買ってきたら村中の雌猫が欲しいと騒ぎ出したって、テツがぼやいてた」
「あいつ本当に抜け目ねぇな…」
 受け取った籠を弄ぶ黒猫の言葉に、いつでも穏やかに笑う、達観した猫を思い出す。今日も村内待機のテツは、もしかしたら雌猫に囲まれているのかもしれない。あまり、羨ましくない意味で。
「それ、どうするんだ?」
 暫くいじって気が済んだのか、片手で籠を振る黒猫は、そうだね、とさして興味なさそうに籠を見る。
「誰かの使い古しなんて使う気はしないし、草で出来ているんだから、このまま放置したらそのうち森に還るだろう」
 言うなり、籠を放り投げる。草むらの向こう側に消えていく小さな籠は、がさ、という僅かな音を立てただけで、すぐに分からなくなった。
 何気なくその行方を、しゃがみ込んだまま見送っていると、軽く頭を小突かれた。
「なんだよ」
「ぼうっとしてるから。帰らないの?」
 見上げた黒猫の向こう、葉の陰と空の色には、差がなくなりつつある。
「…帰る」
 既に陽の月は傾き、森が暗闇に包まれてしまうまで僅かとなった時間だ。警備当番終了までも、同じだけの時間しかない。
 この森を住処として、既に一年。鬱蒼とした木々たちで囲まれているのも慣れたし、昼間に活発な小動物の気配や、夜中にだけ鳴く鳥の声にも、もう違和感はない。
 帰る場所と言えば、もうあの閉ざされた村しかない。行き交う猫たちのにおいに圧倒される街ではなく、おかえりなさいと迎える手際のいい猫が待つ、名もない村しか。
 改めて思い知らされる。長く暮らした街で何が流行しているかも知らないほどに、自分は街の猫ではなく村の猫になっていると。
「なぁ」
 少しの間を置いて立ち上がれば、黙って待っていたヒバリが、言葉はなくふらりと尾を振る。先を促す仕草に、その黒い瞳を見た。
「明日休みだろ」
「ああ」
「ならさ」
 ぴん、と黒い耳が跳ねる。嫌な予感がしたのかもしれない。
「明日、藍閃行こうぜ」

「へぇ、やっぱりあんまりかわらねぇな」
 久しぶりに足を踏み入れた藍閃は、やはり雑然としていて、すれ違う猫たちは何にも興味がなさそうな顔をして通り過ぎていく。
 最後に来たのは、賛牙長に呼び出されたヒバリに付き合った時だ。一巡りの月くらいで何が変わるはずもないと分かっていても、少しは期待してしまう。
「簡単に変わるような街じゃない」
「分かってるっての。ほら、行こうぜ」
 不機嫌丸出しの黒猫は、まだ何か気に入らないことがあるらしく、耳が僅かに寝ている。
 夕べ、藍閃に行こうと提案して以降、ヒバリはあまり機嫌がよくない。もともと騒がしいところが嫌いだし、集団を嫌う習性があるリビカの中でも、ヒバリは特に複数でいることを嫌う。以前は、見えない位置に控えているテツのことすら疎んでいたほどだ。
 だから、藍閃を好きな理由は一つもないと、知ってはいたのだけれど。
 それでも、ここまで来るところが律儀というか、なんというか。
「ここまで来たんだから、んな顔してんなっての。ほら」
 町の入り口で頑なに立ち止まるコートの裾を引く。渋い顔をした黒猫は、深くため息を吐いてから、ようやく一歩を踏み出した。
 森の奥に閉ざされた村に暮らしているとはいえ、町と全く無縁で生きていくことは出来ない。藍閃から遠く離れた村であれば、通貨という概念すらない場所もあり、そういった村は自給自足をしていくしかないが、これほどに町が近く、おまけに年嵩の増した指導的立場の猫がいない特別警備隊の村では、町に頼らなければどうしようもない部分がある。果実水もそうだし、それに落とす蜜も同じだ。
 だから、村では買い物当番というものがある。長であるヒバリと、そのつがいは免除されているが、他の猫は順番で藍閃へと買い物へ出かけていて、彼らが買い付けたものを分けてもらうのが常だ。
 免除されていることを、どうと思ったことはない。正直な話をすれば面倒だし、村猫たちが進んでやっているだけだからと説明されていたのもあって、気にしたことはなかった。ただ、そういえば買い物という行為自体は嫌いではなかったと、唐突に思い出しただけだ。
 渋々と歩く黒猫の後ろ姿は、少しでも気を抜くと見失いそうになる。村以外では気配を消して歩く癖のあるヒバリは、町中でも同じらしい。
「それで、何が見たいの? あの籠?」
 肩越しに振り返る目が、胡乱げだ。そんなに面倒だったのなら、村で待っていればよかったのに。
「も、あるけど。蜜がすくねぇから、いいのがあったら欲しい」
 一日に使う量は僅かだが、そもそも蜜は大きな瓶や甕で売られているわけじゃない。高価なものになれば、一巡りの月も保たないだろう量で、毛が逆立ちそうな値段になる。
 毎日に使うものだからと、平均的な値が付けられた蜜を頼んでいるが、折角だから一度は自分で買ってみたいと思っていた。
「作ってみたいって言ってなかった?」
「作り方判んなきゃできねぇだろ」
 そんな話をしたこともあったが、簡単に出来ることでもない。村は森の中にあるのだから、花など季節になれば嫌というほどにある。ただ、材料がどれだけあっても、その作り方が判らないのでは意味がない。図書館に行けば調べられるのだろうけれど、今のところそういった暇もない。
「ふうん」
 それきり、話題に飽きたのか、ヒバリの返事は素っ気ない。
 立ち並ぶ店に足を止める猫たちを、ヒバリは縫うようにして避け進んでいく。少し後ろを歩くこちらの存在など気に止める様子もなく、時折露店の軒先を覗くだけで、興味もなさそうに離れる。
 広い祇沙の中でも珍しい、移動する村で生まれ育ったヒバリは、社交的な猫に囲まれたはずなのに排他的だ。思えば、こんなに近くにあることが許されるまでに一年かかっているし、つがいと認められた今でも、時々何か近寄りがたいものがあるように感じることもある。
 これだけ多くの猫たちが行き交うというのに、ヒバリのように黒い毛並みを持つ猫は一匹もいない。スレ違うどの猫も、気にした風もなく、気づく様子もなく黒猫の横を自然と通り過ぎて行く。
 フードを被るでもなく、何一つ隠していないのに、それが目に留まることのないよう気配を隠して歩く黒猫。
 それは恐らく、ヒバリが意識してのものではなくて、長い年月の間で身についた癖だ。伝え聞く不吉なうわさ話を信じる猫は減っても、ヒバリは黒猫であったが故に凄惨な場面にも立ち会っている。無益な騒ぎを起こさないため、厄介事に巻き込まれないために、自然と身に付いた処世法だ。
 もしかしたら、こうして町を歩くヒバリとすれ違ったこともあるのかもしれない。漂うほどにも気配を感じさせることはなく、賞金稼ぎや用心棒、荒っぽいことの報酬として金銭を得る生業の猫も多い藍閃で、ここまで誰にも気づかれることがないのに、あのころの自分が気づけたとは到底思えなかった。
 ふてくされ、日々を悶々として過ごすことしかしなかった、出来損ないの賛牙には。
「あ」
 数え切れないくらいの店が建ち並ぶ中で、ようやく目的の籠が山と積まれた店に出くわした。少しだけ流れを逆らって近づくと、雌猫ばかりかと思っていた店の前には、ちらちらと雄猫の姿がある。見れば大きな籠もあり、行商猫らしき身なりの猫があれこれと品定めをしていた。大量の商品を入れた籠を背負って行商に出る猫たちにとっても、使い勝手がいいのかもしれない。
 少し様子を見てから、腰に下げられそうな籠を手に取った。底が丸くできていて、これなら、木の実を入れても潰さないで持って帰れそうだ。
 品定めをする猫たちの相手が一段落したらしい店主に、これをと告げて金を払う。金は、一応は藍閃側から報酬として少なからず受け取っているらしく、今日も出かけにテツから渡されていた。つるりとした数種類の石に価値が割り振られていて、それらと商品を引き換えることができる。
 籠を手に取りあれこれと騒ぐ猫たちの間からすり抜けて、通りに戻る。買ったばかりの籠を腰に下げた袋にひっかけると、邪魔にもならない大きさのそれは、違和感なく収まった。
「いいな、これ。なぁ…」
 下げていた視線を上げる。
 そこに、黒猫の姿はなかった。

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