「帰ろうか」2
「まあほとんど予想してたけどな…!」
これだけ広い町で、気配を隠す猫とはぐれずにいろというのは無理だ。常に視界に入れておかなければ、すぐに見失う。
判っていた。判っていたことだけれど、まさか目的の店を前にして足を止めることすら出来ないとは。
きょろきょろと辺りを見回すが、猫でごった返している市のど真ん中で、簡単に見つかるはずもなく。藍閃一の大通りでは、端の方を歩く猫の毛色すら判らない。まして、小型種でもある黒猫なんて。
あの野郎。
思わず口をつきそうになる悪態を飲み込んで、来た方向とは逆に歩き出す。ここに来るまでの間、ヒバリが何かを気にしている様子はなかった。なら、恐らくだが先に進んだのだろう。戻る理由はないのだから、とにかく抜け出そうとするかもしない。
周囲に目を配ることだけは忘れずに、通りを歩く。不審に見えるのか、すれ違う猫の視線が時折向けられている。ヒバリと違い、あまり気配を消せていないのだろう。本当なら森の中と同様に歩くのか一番だろうけれど、慣れた町中ならば、逆に消している方が怪しい。だからかこそ、早く見つけてしまいたいのだが。
そのまま進んでいると、やがて行き交う猫の数が目に見えて減ってくる。出入り口から真っ直ぐに進んできたから、この先には藍閃領主の館しかない。古巣と思えば近づけるが、あまり立ち入らない方がいい場所でもある。辺りをうろつく猫の身なりも豪奢になっていて、ますます場違いだ。
「ったく、どこ行ったんだあいつ」
ここから先に、ヒバリは行かないだろう。領主や賛牙長に対しての態度から見ても、近くに来たからお茶をする、なんて間柄には見えなかった。むしろ、特別に用事がない限り近づきたくない、といった様子で。
だから、ここまで来たのに見つけられないということは、どこかで追い抜いたか、裏道に入っているか、だ。
裏道に入られると、探し出すのはまず無理だ。入り組んだ町の裏側は、そこで生まれ育った猫でなければ抜け出すのも難しい。内部の警備隊が黙認している酒場や、ならず者の住処まで存在する裏に踏み入ったことはなかった。
仕方ない。引き返すしかないだろう。
そう決めて、少しだけ遠くに見える領主の館を前に、踵を返し歩き出す。どこかで出会えればそれでいいし、入り口まで戻って見つけられなければ、先に村へ帰ればいいだけだ。子猫じゃあるまいし、ヒバリだって陽の月が傾く頃には帰ることを思い出すだろう。
騒ぎもないのんびりとした道を、子猫達がじゃれあうように走っていく。体に似合う短めの尾が、楽しそうに揺れていた。
はしゃぐ子猫の姿が消える頃、あたりには見慣れた光景が戻ってくる。うるさいほどに視界を埋め尽くす猫たちの中に、黒猫の姿はない。本格的にはぐれてしまった。
「しかたねぇか」
通りの端、立ち並ぶ二つ杖の残した遺跡に寄り添うような形で作られた庇と、その下に広げられた露店を避けて、脇道に続く壁へと背をつく。ちらりと店主から目を向けられるが、素知らぬ顔を続けていると、そのうち無いものとして扱うことにしたのか、呼び込みに精を出し始めた。
当初の予定通り、村に帰ろう。目の前の雑踏は収まる気配もなく、黒猫の姿などどこにもない。見つけだす労力を考えたら、帰る方が正しい。きっと。
なのに、足が動かない。
目の前の流れに乗れば、藍閃を抜ける。そのまま街道に出て、見覚えのある木を曲がり、結界を抜けるだけだ。分かっているのに、それでいいはずなのに。
「…くそっ」
舌を打って、壁から背を離す。
通りを埋め尽くすほどの猫たちから、たった一匹の猫を探し出すのは難しい。
けれど、村に入るための目印は、たった一本の木だ。森の中に多くある木の一つを見分けられるのに、この身と対成すたった一匹の猫を探せないなんて、そんなはずはない。
自分でも無茶だと思う現実に蓋をして、雑踏の中に足を踏み出した。
瞬間。
「なっ!?」
真後ろから左腕を捕まれ、思わず振り払う。
何の気配もしなかった。後ろには壁しかなかったはずなのに、いったい、誰が。
知らぬ間に逆立つ毛を抑えることもせず、距離を取りながら振り返る。弾みで、指先から伸びた爪が、掴んでいた腕を掻く。がり、と覚えのある感覚が指から伝わり、ぐるる、と唸る喉が警戒を知らしめた。
「やってくれたね」
唸りが、そこに立つ姿を見て、ぴたりと止まる。
三本のひっかき傷が走る手の甲を忌々しげに見る猫の、わずかに伏せられた黒い耳が、ぴっと跳ねた。
「てめぇっ! どこで何してやがった!!」
「こちらの台詞だ。知らない間に姿がないから、まさか生まれ育った街で迷子にでもなってるのかと」
「んなわけあるか! てめぇこそ、店見てる間にふらっと消えやがって。延々探し回ったんだぞ!」
「ああ、うるさい。怒鳴らないと話も出来ないの、君」
「あぁ!?」
心底嫌そうな黒い瞳が、ふいと反らされる。何気ないその仕草に、余計に腹が立つ。
「迷子になってたのはてめぇだろ! だいたい、籠見に来るのが目的だってのに、目的のもん見てる間にいなくなるとかおもわねぇだろうが!」
「籠? あぁ…あったの」
「あったよ! てめぇはいなくなってたけどな!」
ぐるる、と再び唸り出す喉が、不快と言うよりは腹立たしさを訴える。
なのに、こちらこそ腹立たしいと言わんばかりの黒猫は、ちらりと通りを伺ってから、踵を返した。
「ヒバリ!」
「そこは目立つ」
薄暗い裏通りに入っていく後ろ姿は止まらない。コートの裾が、ひらひらと誘うように揺れた。
ここで離れてしまえば、今度こそ藍閃内での合流は難しいだろう。それくらい、この街は広い。
色々と言いたいことはあったが、とりあえず飲み込んで、少しずつ離れる背中を追った。確かに、背後からは痛いくらいの視線が向けられている。それらの視線を振り払うように、先を行くヒバリを追いかけた。
見知った場所のように、躊躇いなく進んでいく後ろ姿が止まったのは、ずいぶんと静かな場所に出てからで。
「どこだ、ここ」
「すぐに分かる」
こっち、と顎で示したヒバリが、ふと消える。次いで響く、がさりという音に、慌てて視線を上げた。
立派とは言い難い木の枝に足をかけたヒバリの尾が、ふらりと揺れる。それと合わせたように、さらに上へと姿が消えた。相変わらず、歌を纏わない時でも身軽過ぎる。
「置いていくよ」
すでに見えなくなった位置から、聞き慣れた声だけが聞こえる。なにがなんなのかわからないが、とにかく追いかけるほかにない。
そう腹を決めて、地面を蹴った。同じように枝に足をかければ、少し先に建物の屋根が見えた。端に黒い毛並みも見えて、しなる枝がきしみをあげる前に、もう一度蹴る。
その先に居たのは、一匹の黒猫と、市場に並ぶ露店の色取り取りな天井だけ。
「来れたじゃない」
「馬鹿にしてんのか」
リビカという種族に生まれたからには、身軽さと俊敏さは当たり前だ。ヒバリほどではないにしても、それなりに自由は利く。
「まさか」
先ほどまでの不機嫌も薄い黒猫が、わずかに笑う。
「でも、枝を折らずにあがるとは思ってなかったよ。細い枝だったから、もしかしたらとは思ってたからね」
そう言って、ヒバリがその場に腰を下ろす。
「そんな猫がいんのか」
枝の折れる感覚くらいは分かっているつもりだ。
「以前の君なら分からなかったよ」
「…かもな」
嫌味とも、賞賛ともとれる言葉には、曖昧に返すに止めた。
街で暮らし、日々野生から遠ざかる生活をしていた頃ならば、分からなかったかもしれない。もう一年以上も前のことだが。
「座りなよ、立ってると目立つよ」
「あ、ああ」
下から見上げてくる黒瞳に促され、その隣に座った。足下はしっかりしていて、リビカの造った建物ではなく、二つ杖が残した遺跡の一部らしい。大きな一枚の岩から切り出したような屋根は、まるで床のように広く、なのに素っ気ない。
周囲には猫の気配が感じられるが、どこか遠く、通り過ぎていく風だけが、様々な匂いを運んでいた。
「ここ、どこだ?」
「藍閃の端に近い、市場の入り口側」
「へぇ… よく知ってたな」
「前に、テツを撒こうとして見つけた」
「……お前な…」
一応、護衛も兼ねていただろう部下に、なんてことを。
「付いてくるなと言ったのに、聞かないあれが悪い」
「あーそうかい」
どういったって聞かないヤツだ。相手にするだけ時間の無駄でしかない。
市場を行き来する猫たちの頭上、大型種の耳ですら覗かない場所で見る藍閃の街は、見慣れているはずなのに知らない景色のように見える。遠くに見える領主の館や、立ち入り禁止の図書館。市から離れた場所に並ぶ猫たちの住処、乱立する二つ杖の灰色をした遺跡、そして村が閉ざされている迷いの森。全て見知っている場所の筈なのに、まるで、初めて見る景色のようだ。
ふと通り抜けていく風が、視界の端にある黒い髪を揺らす。さほど長くない髪なのに、ふわふわと揺れる黒が、やがて静かに収まった。
その向こうに見える表情は穏やかで、とても静かだ。藍閃に行こうと提案してからはぐれるまでの間、ずっと見せていた不機嫌の影は微塵もなく。
ただ、立てられた片膝に添えられた手の甲に走る爪痕だけが、不似合いな赤を見せていた。
「…それ、さっきの?」
自然と伺うような声色に、走る傷に目を向けて、ああ、とヒバリが漏らす。持ち上げられた手の甲に舌が這い、ざり、と音がした。
「大した傷じゃない。今度からは、もう少し力を入れて掻いた方がいいかもしないね」
そんなはずがない。咄嗟だったし、ヒバリだと分からずに爪を立てた。加減なんてなにもしていないから、それなりの傷になっているはずなのに。
証拠に、拭われたばかりの傷からは、もう血が滲みはじめている。盛り上がるように姿を見せる赤い血が、まるで何かを拒む線のように走っていた。
「今度は、爪の使い方でも習うか…」
含み笑いが、ふと消える。
舌を這わせた傷は浅く、それでも裂けた皮膚の感覚が生々しい。舌に残る血の味は、不思議と嫌悪を含まず、むしろ苦々しいもののように思えた。
「気にしなくても、痛くはないよ」
「っせえ」
二、三度と嘗めとれば、血も自然と止まった。本当なら薬草を使って血止めをするべきだが、警備のために出かけたわけではないから、今日はなにも持ってきていない。小さな傷程度ならば舐めて治すが、傷が深ければ間に合わなかっただろう。
「…帰ったらちゃんとしてやるよ」
「本当に痛くないんだけど」
「森の中をそのまま歩き回るわけにいかないだろ。匂いで気づかれちまう」
これくらいはと、持っていた布で手の甲を縛る。くるまれた手を見る黒い瞳は楽しげだ。
「…お前、こういうの見んの、好きだよな」
「好きってわけではないけれど、あまりしたことがないから」
「はあ?」
妙な言葉に、視線をあげる。思っていたよりも近い位置にある顔が、ふと笑った。
「触られるのは好きじゃないから。されたことはあっても、許したことはなかったな」
「それ」
どういう意味だ、と問うよりも先に、近い距離がさらに縮む。覚えのある仕草と、僅かに伏せられた黒瞳に、同じように瞼を閉じた。
触れる唇の感触は乾いていて、耳を撫でる指からは布越しでも微かな血の匂いがする。ぴ、と反射で弾いてしまうのも構わず、遊ぶように撫でてくる指が、尖った先端を軽く摘んだ。
痛みよりむず痒さが残る触れ方にむっとして、仕返しのように唇を食む。薄くて乾いているそれを舐めれば、微かに笑う気配がした。
じゃれるようなやり取りは予想外に楽しくて、ようやく離し離された頃には、ヒバリの乾いた唇も姿を変えていた。
くるると音が止まない喉に、ヒバリの指が触れる。撫でられると、余計に音が大きくなって恥ずかしい。
「ヒバリ」
咎めたいのに、音が大きくなって説得力がない。
それを分かっているのだろう、うんと笑う黒猫は、なのに手を離さなくて。
悔しさと気恥ずかしさに耐えられず、無理矢理手を取り離させれば、逆に手を握られてしまった。布が巻かれた手は、隠れている傷などまるで感じさせないくらい、強い力で握ってくる。
「帰ろうか」
静かな声が、止まない喉の音に混じって聞こえた。
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