「これは何?」

 祇沙には四季がある。温度と環境の僅かな変化が見られるだけで、それは大きな変化ではなかったが、それでも春になれば花々が芽吹き、夏になれば虫が騒ぎ、秋には葉が色づいて、冬には雪も降る。四季それぞれに、独特な変化も確かにあった。
 長い冬が終わり、花咲く春が訪れて、やがて夏が閉じ。
 季節は、深い秋を迎えていた。


「木の実とか、最近よく見るなって思ってたんだよな」
 何故か率先して先を歩きたがる銀猫が、どこから拾ってきたのか一本のじゃらしを振り回しながら、さくさくと森に分け入っていく。
 銀猫が村に住み家を移して、今度の冬で丸一年になる。森の様子にも慣れたらしく、最初の頃はあちこちに注意を飛ばしてちっとも落ち着かなかったというのに、最近ではこの様子だ。草木をかき分けて淀みなく歩き、時折、手が届く場所にある木の実を摘み、腰袋に投げ入れる。そうした実は、たいてい翌朝の食事として出されることが多い。
「ああ、もう秋だからね」
「年中できるもんだと思ってたけど、こうして見ると秋が一番多いな。端から味見してみたい」
 ぶん、とじゃらしを振る。なんとなく、綿毛のついた細い枝から目を離して、あたりを見渡した。
 祇沙の中でも最大を誇る都市、藍閃の周囲に広がる森は、迷いの森と呼ばれている。大昔、世界にまだ雄と雌が同等に存在していた頃から今に至るまで、この広大な森を迷わずに歩けるのは行商猫が大半だと言われている。彼らには独特の道があり、その道を通ると迷うことなく目的の町まで辿り着く。藍閃のように、さまざまな地域から出てきた猫たちが、習慣も習性も失くしながら生きている街ならばともかく、今でも森の向こうにある村々に暮らす猫たちは、村で一生を終えることも珍しくなかった。
 それでなくても縄張り意識の強い猫たちは、よほどのことがない限りよその村に行こうとはしない。故に、賞金稼ぎや荒くれ者たち、行商や旅を目的とする歌うたい以外には、そもそも道が必要がない。街道と呼ばれる道もあるが、要所と要所を結ぶためだけに存在しているそれは、よほど注意しなければ道とは分からないものだ。
 そうして放置された森には今、様々な木の実や薬草が生い茂っている。中には群生している地域もあり、隠れながらとはいえ森の一部分を任された自分たちの膝もとには、秋の実りがたわわに実っていた。
「警備の途中じゃ駄目なの?」
「あぁ? ああ、木の実?」
 くるりと振り返ったハヤトに頷いて返せば、考えるように首を傾けた。
「それもいいけど、腹いっぱいで動けないのも困るだろ」
「味見じゃないよね、それ」
「うるせぇな」
 ぷい、と前に顔を向けて、歩を進める。ゆらりと揺れた尾は一度きりで、言葉ほどの不機嫌さを表してはいなかった。
「果実水ってどうやって作るんだろうな、いいのがあったら作ってみたい」
「…君、どんどん都会くささが抜けてくるよね…」
 森に来たばかりの頃は、都会で長く過ごしていた所為か注意散漫だった。それが、たった一年で木の実から果実水を作ろうかというところまで行きつくのだから、猫の本能というのは意外にも力強いものなのかもしれない。
「いいことだろ」
「まぁね」
 振り返らないままの言葉に、頷く。確かに、いつまでも都会を引きずっていられては困る。
 だが、思い返せば、ハヤトが森での生活に文句を言ったことは一度もなかった。当初、家がないからと一晩だけ部下の寝台を間借りしたことだけは、落ち着かない、と拒否していたが、床で寝ることも、都会のように調理された食事がないことにも、文句をつけたことはない。それどころか、今までの生活とは真逆だろう、すべてを自分たちの手で用意する生活を、楽しんでいた節すらある。見かけだけなら、今も都会育ちらしい泥臭さのない猫なのに。
 変わった猫だと、何度思っただろう。
「ああ、陰の月が昇り始めたな」
 ふわり、とじゃらしが投げ捨てられる。
 緑色の瞳が見上げる先、空の端から、つがいの毛並みに良く似た銀色の月が覗いていた。


 月が入れ替わるのを区切りに村に戻ると、広場にはぽつぽつと猫の姿が見え、その中心にいる一際背の高い猫が軽く頭を下げた。
「お帰りなさい、長、ハヤトさん。今日はいかがでしたか?」
 毎日変わらない文句で出迎えるテツは、訓練用の刃を潰した剣を背に回して、数歩近づいてきた。
「今のところ変わりはないね」
 藍閃周辺の特別警備とはいえ、何事もない日もあった。特に注意が必要になるのは祭りの時期で、冬と春以外の季節は比較的穏やかだ。時折思い出したように訪れるならず者はその都度捕縛しているが、他の組がそれらを行うこともあり、またそういう行為がこの一帯での騒ぎを抑えているのか、年々騒動は減っていた。
「森はそろそろ実りの季節ですし、逆に一般の猫が出入りすることの方が多くなりますから、注意が必要なのはそちらでしょうか」
「そうなのか?」
「ええ。普段出入りしない猫たちですから、迷っていることも多いですよ。そういった習慣を見抜いている輩から、狙われることもあります。特に年若い雌などは、田舎ではまだ数少ないですから」
「へぇ…」
 祭りの時期にかかわらず情報収集が主な役割であるテツの言葉に、ハヤトが素直に感心している。その会話を横に通り過ぎて、住み家にしているこじんまりとした建物に向かった。
 薄暗い室内に足を踏み入れて、寝台のそばにある窓を開ける。周囲には家はなく、少し離れた場所を取ったために、窓の外には夜の森しかない。村を取り囲む結界は広く、こうして見渡せる限りは村の敷地だが、長である自分の性格を知ってか、窓の外には猫の気配もなかった。
 さわさわと、撫でるような秋風が柔らかく吹きこんでくる。夏の暖かい風とも、冬の冷たい風とも違う中途半端なそれは、一日締め切っていた室内の空気を入れ替えて行った。
「秋か」
 森の中に木の実が増え始めると、確かに秋だと感じる。葉の色が変わったり、花ではなく木の実が見かけられるようになったりと、小さいことながら季節の変わり目が目に見える。窓の向こうに広がる森もまた、夜だということを抜きにしても、色どりはほとんど見られなくなっていた。春先には、むせ返るほどに花々が咲いていたというのに。
「ヒバリ」
 僅かに戸が軋む音をたて、開かれる。同時に呼ばれて、ベッドの脇から振り返った。
「お前、そのまま寝るなよ」
「寝ないよ」
 さほど眠いわけじゃない。確かに眠気がひどいが、今日はまだ目が冴えている方だ。
「どうだかな… コートくらい脱げ」
 訝る銀猫が、眉間に皺を寄せて室内にあがる。後ろ手に締められた扉が、もうこのつがいが出かけないことを表していた。
「今日は水浴びに行かないの」
「ああ、別にいい」
 何事もないことのように返して、いいからコート脱げ、と自分もコートを脱ぎながら促してくる。
 本当に、一年前とは違う猫のようだ。あれだけ警戒心をむき出しにしていたのに、今やまったく村の猫と違いがない。森に出ると必ずしていた水浴びも、最近ではこうして数日に一回になってしまった。そもそも毛づくろいさえしていれば毎日の水浴びは必要ないが、都会育ちのハヤトは村猫から見れば異常なほど頻繁に水浴び場へ足を運んでいたのに。
 それでも、やはり村猫とは違う。手元で灯された火に反射する、小さな珊瑚の髪飾りで括られた銀色の髪などは、この閉鎖された村には全くなかった一色だ。
「色がなくて寂しいな」
 明かりを手に持ったハヤトが隣に立ち、窓の外に視線を向けて呟く。同じように窓の向こうに視線をやれば、陰の月が放つ僅かな光の中で、丈の短い草が地面で揺れていた。
「そうかな」
 立派に緑があると思うが。
「そういう意味じゃねぇよ」
「大体分かるけど」
 色合いが少ない、と言いたいのだろう。それは確かにそうだけれど、秋というのはそういうものだ。
「冬が終わればまた咲く。それまではこれを楽しむことだね」
 それなりに長い歴史の中で、祇沙に春が訪れなかったことはない。代替わりの度に混乱があり、時には祭りすら行われることがなかったこともあるが、それはあくまで猫の世界での出来事であり、祇沙という国を包む環境が変わることはなかった。だから、この秋が終わり、再び冬が来て、寒さの去る頃には春が訪れているはずだ。そうすれば、またこの窓の景色は、鬱陶しいくらいの花で埋め尽くされることになる。
 肩にかけたままのコートを外す間に、それだけを告げると、そうだな、という返事が聞こえる。
 どこか上の空で呟く銀猫の視線は、じっと外に向けられたまま、改めて名を呼ぶまで外されることはなかった。


 翌朝、特に何の問題もなく目が覚めた黒猫は、いつものように用意された果実水を飲み、申し訳程度に用意された木の実を口にした。昨日、ハヤトが摘んでいた木の実はまだ新鮮で、牙で噛めば甘酸っぱい果汁が口に広がる。
 それを喉の奥に流し、そういえば今日は昼以降の仕事だったと思いだした。
「ああ、そうか。昼からだな」
 どの時間帯に森へ出向くかは、名目上長である自分が決定していることになっているが、その実テツが取り仕切っている。こういった細々したことを決めるのは苦手だったし、適任なのがテツだっただけというだけで、特に意味があるわけではなかった。物事の指針を決める役目だけを担い、他の雑務はテツが中心になって片付けられる。そうして成り立っている村であり、組織だ。
 前日昼から森に入ったものは、翌日も昼から。そしてその次の日を休み、次の日には朝からの周りになる。大抵その入れ替わりで決められるが、事自分たちにとってはそれが狂うことが多い。つがいである賛牙の体調が最優先されるためだ。一度歌えば、休まない限り回復しない。少し休めば歩ける、といったものとは違い、一度は眠らないとうたう力が戻らないというのが村唯一の賛牙の訴えで、そうした経過の元、つがいの警備状態だけが変則的になっている。
 昨日は、森の中で誰にも会わなかった。何とも平和な一日で、だから通常通り、昼からの巡回になる。
「なら、少しの間出てもいいか?」
 使われた器を下げた件の賛牙は、そう聞きながらも、すでに片手にコートをもって出かける気でいる。
「構わないけれど」
 別段、つがいだからといって常に一緒に居る必要はない。警備のために森へ出るのではないのなら、単独行動も特に咎める気はなかった。これまでの間にも、何度かハヤトだけが藍閃へ出かけたこともある。
「陽の月が中点になるまでなら」
「わかってる。じゃあ」
 頷くハヤトが、踵を返し扉から出ていく。その後ろ姿が、どこか浮足立っているように見えたのは、気のせいだろうか。
 ぱたりと扉が閉まり、室内が静かになる。
 あの銀猫が来るまでは、これが当たり前だった。けれど、彼が来て以降、この静けさの中を自分がどうやって過ごしていたのか、全く思い出せないでいる。ただひたすら寝ていたのか、それとも、何か行動していたのか。それすら曖昧なのに、あの猫が来て以降は、うるさいくらい賑やかな声が必ず記憶にあって。
 こうして残されると、普段どれだけ共にいるのかを、改めて思い知らされる。
「…ふん」
 軋む椅子に浅く腰掛け、背もたれに頭を預ける。見上げた天井は暗く、まだ微かに残る果実水の香りを漂わせながら、静かにこちらを見下ろしていた。


 陽の月が中点に達する頃、宣告通り戻ってきた銀猫と共に森へと出かけ、一悶着を納めて村に戻った頃には、すでに陰の月は頂点に達していた。
 転がり込むようにして家へと帰り、コートを脱ぎすてるとろくな毛繕いもせずに寝台に登る。特別疲れるような相手ではなかったが、よりにもよって藍閃の外壁が見える位置での騒ぎとなったために、いつものように適当に放り出して帰る、ということができなかった。別に構わないという主張を、絶対に駄目だと受け入れなかったハヤトのせいなのだが、それから縛った二匹の闘牙を藍閃入口まで引っ張り、引き渡し場所となっている小屋へと放り込んだ。こうしておけば、賛牙長から命の下された内部の警備隊が定期的に引っ張っていく。そのあとどうなるかまでは知らないが、とにかくその作業で余計な体力を奪われることになった。
 リビカには体格差があり、一般的に小型種と呼ばれる耳は大きくとも体の小さな種族が、大型種と呼ばれる耳の小ささに対して体格の大きな種族を引っ張るには、無理があり過ぎたのだ。それも、二匹ともなれば、どうしても往復しなければいけない。途中、あまりに面倒くさくて大半の距離を蹴り飛ばしてきたのだが、それでも疲れたものは疲れた。
「ぁー…」
 同じように隣へ寝転んだハヤトは、うめくような声を漏らして、すぐに何も言わなくなってしまう。
 どうしたのかと顔を上げれば、すでに目を閉じ寝息をたてはじめていた。あれほど口うるさく言っていたというのに、自分はコートを着こんだまま。
「ハヤト」
 肩を掴んで揺すっても、ふらふらと力の抜けた耳が左右するだけで、閉ざされた瞼が上がることはなく。それどころか、うるさそうに眉をしかめ、ふいとそっぽを向いてしまった。それきり、再び静かな寝息だけが聞こえてくる。
 確かに、あの二匹を引きずって行くのは、小型種である二匹には大変な作業だった。が、決してできなかったわけではないし、さすがに倒れ込んで即座に寝てしまうほどの疲れではない。この村に来て以降、それなりに体力をつける訓練をしていたハヤトには、おそらく内部の警備隊に所属する闘牙などよりも体力があるはずだし、なにより今日は歌っていない。歌わない限り、こんな風に眠り込むようなことは一度もなかったのに。
 だが、経験上こうなってしまったハヤトは殴ろうと蹴ろうと起きないことが分かっている。ならば、同じだけ疲れている身としては、放置して眠ってしまう方がいい。
 これ以上考えるのは無駄と判断して、黒猫は再び寝台へと横になった。


 次に意識が覚醒したのは、室内にうっすらと光が漏れ始めてだった。
 昨日の疲れもあってか、体が多少だるい。寝台の上で伸ばす体も、どこか軋みをあげるようだった。
 ぐっと力を入れて伸ばした背を戻して、隣を見る。眠りが深く短いハヤトが先に起きるのはいつものことで、だから隣に誰もいないのは予想していたことだったが、昨日の様子を見る限り、一晩程度の睡眠で体力が完全に回復したとは思えない。だがいつものように隣には誰もおらず、それどころか室内にすら誰の気配もなかった。ただ、ぽつんと残れた椅子の背にコートが二着、掛けられているだけで。
「…今度はどこに…」
 つい口を吐いて出る悪態に、ため息を重ねる。
 やはり、気持ちが悪い。すでに二匹でいることに慣れてしまった室内にひとりで残されるのは、体中の毛を逆撫でされるみたいに、とにかく気持ちが悪くて仕方ない。
 認めざるを得ない。これは、あの猫がいないからだ。
 隣で眠り、食事をともに取り、背中を見せて森を歩く、歌うたう銀色の猫が。
「…ん?」
 いらつくばかりの神経に、ふと匂いがかすめる。
 室内を見渡すが、やはり誰もおらず、なにもない。机の上に器が残されていることも、木の実が置かれた皿もない。匂いがするようなことはないはずなのに、室内には、どこか甘い匂いが絶えず漂っていた。
 それは、腰かけた寝台の向こう、外に続く窓の隙間から、風と共に流れてくる。
 甘く、酔いそうなほどに濃密な空気に、誘われるように手を伸ばして、窓を押し開けた。
 窓の外に広がるのは、二日月ほど前に見たのと変わらない、緑一面の光景。
「これは…」
 では、なかった。
 秋になり、多少勢いを失いかけていた木々の緑は、まるでこの一面だけが春へ逆戻りしたかのように、つやつやとした緑色をしている。足元を埋め尽くすように生えていた草たちも、その姿を深くに隠し、代わりに色鮮やかな花々がこれでもかと咲き誇っていた。それも、春の花、夏の花関係なく、すべての花々が、だ。おかげで、歩いて十歩程度の区画一面に、季節を無視した花が好き勝手に咲く状態になっている。色が洪水のように押し寄せてくるような気がして、思わず顔をしかめた。
 これは、春に逆戻りしたのか。それとも、春へ先送りしたのか。
 季節に合わない、不可思議な光景が広がる窓枠の中。その中心に立ち尽くす見慣れた姿は、木々の緑でも、花の色でもない光る靄に包まれ、こちらに背をむけた状態で立ち尽くしている。ふわふわと、下から吹き上げられるようにして舞い上がる髪は解かれたまま、服の裾を微かに揺らし、けれど銀色の尾をぴくりともさせずに。
 その姿だけを見れば、なんと見慣れた姿だろうと思う。
 あれは、歌をうたう賛牙の背中だ。
 体から放たれ漂う歌は、花々を包むように広がり、光に包まれた花は目に見えて背を高くする。ありえない成長に驚く暇もなく、靄はやがて窓辺にまで届いた。壁に当たり、行き先を失った靄に指先で触れる。幾度となく受けてきた歌は、けれど対象が植物であるせいか、歌詞がよく伝わらない。
 ただ、穏やかに吹く風のような、りぃんという心地よい音が、頭の中で何度も鳴り響くような気がする。
「ハヤト」
 色彩の中で、ただ一つだけ見慣れた銀色は、呟く程度だっだろう声に耳を揺らし、ゆっくりと振り返る。夢見るようにうつろな、ここに心がないような視線をしているのは、賛牙が歌をうたう時の特徴だ。歌い方によって千差万別なのだろうが、思いや願いという形で歌を紡ぐハヤトには、よくそういった様子が見られた。
 焦点の合わない曖昧な視線が、一度瞼を閉じることで隠される。次に目を開いたとき、彼の周りに漂っていた靄は静かに消え、遠目に見る緑色の瞳は、木々に成るどの葉よりもしっかりとした色をしていた。
「ヒバリ… っと」
 歩きだそうとしたハヤトの足が、足元に咲く小さな花に止められる。戸惑うように辺りを見渡し、できる限り花を踏まないようにしているのか、つま先だけで歩き出した。
「意外と早く起きたな」
 窓辺にたどり着いた銀猫が、わずかに高いこちらを見上げてくる。
「君の方こそ」
「俺はたいてい決まった時間に目が覚めるんだよ」
「そう… それにしても、これは何? 君がやったの?」
 今もハヤトの背後に広がる花々は、さわさわと風に揺られている。頬に触れるそれは確かに秋の風だというのに。
「ああ」
 顎を引くようにして頷いた賛牙は、くるりとこちらに背を向けて、自らが生み出した花畑を向いた。
「色々咲いて、驚いた」
「いつの間に」
 こんな歌を作っていたのか。
 呟けば、ぴん、と一度だけ耳が跳ねた。
「…随分前に、そんな話しただろ」
「え? …そういえば」
 騒がしく過ぎた暗冬が終了し、冬が一段と深まっていた頃。まだ春までは遠く、寒暖の差が緩やかなこの国にもいくらか寒さが漂っていた。そうなれば当然、緑は鮮やかな色を失い、花は種類を少なくする。
 そんな光景に、花を咲かせる歌を知っている猫がいた、という、遥か昔に聞いたおとぎ話を思い出した。
 藍閃育ちで別館付きの教育者として長年勤めていたハヤトには、やはり心当たりがあったらしい。が、残念ながら資料もほとんど残されていない賛牙のこと、歌についてなど書き記されていなかったらしく、その歌は後の賛牙たちに受け継がれることはなかった。
 失われた、花を咲かせる歌。
 猫に作用するのではなく自然に作用する歌を、作れたら歌ってみるという、簡単な口約束だったというのに。
「覚えてたの」
「まあ、一応は」
 窓枠に両腕を重ね、その上に顎を置いてみれば、銀色の髪が真横に見える。時折、風で揺れるそれらが、花畑を見るにしては厳しい目つきと、相反したように赤くなっている頬をはっきりと見せてくれた。
 ふわりと風が吹くたびに、不思議な甘い匂いが鼻先をかすめる。花や草、土や水のにおいに交る、銀猫のにおいが心地よくて、瞼を閉じた。
 目が覚めた瞬間、体中にまとわりついていた違和感が消えている。あれだけはっきりと感じられた不快感が、かけらすらも感じられない。今はもう、心地よい穏やかな気持ちだけが身の内にある。
「それで、聞けたかよ」
「うん?」
 しばらくそうしていると、ふいにハヤトが聞いてきた。何のことかと瞼を上げれば、やはり真正面に顔を向けたままで。
「何を?」
 何のことを言っているのかわからず聞き返せば、あからさまに嫌そうな顔をして振り返った。眉根がいつもより深く寄せられ、ひどい顔だ。
「歌だよ、歌!」
「ああ、さっきの… そうだね」
 尾を膨らませ耳を立て激昂するハヤトの向こう、いまだ咲き誇る花畑を見る。
 花を咲かせるための歌ならば、聞かせる相手は闘牙ではない。植物に対してうたう歌が、猫である自分に届くことはないだろう。実際、指先に触れた歌からは、歌詞らしい歌詞は感じられなかった。
 ただ、とても心地よく体に響く歌だったことは、確かだ。
「きれいな歌だったよ」
 祈りで発動するというハヤトの歌には、禍々しさがない。幾度か戦いの中で見かけてきた賛牙の中には、呪いのようにうたう猫もいた。それらは傍目にも嫌な気分になる歌で、あんなものを受けたらこちらの気持ちが暗くなりそうだと、見るだけでうんざりした覚えがある。
 ハヤトの歌には、そういった嫌な感情がない。無事を祈り、怪我を厭う歌には、力を増幅させるほかに怪我の治りを早くする効果もあるらしく、小さな切り傷などはすぐに消えてしまう。どれだけ普段が無愛想で騒がしくても、それが銀猫のすべてではないと、歌が証明してくれる。
 身に受ける歌も、花が触れる歌も、だから根本は同じなのだろうと思う。
 季節外れだと分かっていながら咲かずにいられないと、花に思わせるほどに。
 独りでいることが当たり前だった猫が、なにも言わず居なくなることを厭うほどに。
 とても、手放しがたいものに違いない。
「…そうか」
 よかった、と小さくつぶやく声と共に、膨らんでいた耳と尾が、静かに治まっていく。皺が深く寄せられたひどい顔も、どこか安堵したような顔つきになっていた。
 さわりと吹き込む空気が、花の匂いを伴いながら、二匹の髪を撫でるように攫って行く。
 僅かに冷たいそれは、冬の気配を含み始めていた。

地味にこちらの続きです。